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木村英輝プロフィール

1942年大阪生まれ
京都市立美術大学図案科卒業後、同大講師を務める。
日本のロック黎明期に、オルガナイザーとして数々の伝説的イベントをプロデュース。
還暦より絵師へ、
手がけた壁画は国内外で150カ所を超える。
ロックと共に歩んできた半生は躍動感あふれる画面にもあらわれる。
アトリエでカンバスに向かうのではなく、「ライブ」な街に絵を描きたい。
究極のアマチュアリズムを標榜する異色の絵師
作品集に『生きる儘』『無我夢中』『LIVE』など。
2012年、観光庁「Japan.Thank You.」キャンペーンビジュアル、TBSテレビNEWS23Xのアートプロジェクト「23XArt」の第一弾アーティストなどに選出される。

木村英輝オフィシャルサイト Ki-Yan.com

http://www.ki-yan.com/
木村英輝インタビュー

木村英輝、それは「伝説のイベント・プロデューサー」として、ロック・アーティストやクリエーターたちより語りつがれた男の名前である。そんな木村英輝が今、最も精力的に活動する現場は「壁画の世界」だ。それは、額装され、ただ飾られている絵画ではなく、ロックな彼の生き様がそのまま街に戯れ、躍動と感動を語りかけてくる壁画だ。では何故、今「壁画」なのか?そして、京都を舞台に活動してきた彼の、「歩んだ道と京都の磁場」の関わりは?京都市動物園の類人猿舎にゴリラの絵を描き始めたという、木村英輝に会うため、彼の作品「白い蓮、ホワイト・ロータス」がある、祭の余韻 さめやらぬ祇園石段下の「京茶カフェ」を尋ねた。
還暦から絵描きとなった、まさに人生をロックンロールとして生きる木村英輝の壁画に、京都の街を歩くとあちらこちらで出会える。勢いと切れ味、そのライヴ感が感動を呼びます。

木村
「僕は京都市立美術大学(現・芸術大学)の図案科に'61年に入学した。当時、タブロー(額)におさまって美術館や画廊に『美術作品でございます』と飾られた絵に興味が持てなかった。そんな僕に刺激を与えたのは、教授、リチ・リックス上野女史の壁画だった。彼女はオーストリア、ウィーンから、夫で建築家の上野伊三郎教授と連れだって京都にやってきた。バウハウスに象徴されるヨーロッパ近代芸術運動の渦中で活動した芸術家だったリチ教授は、世界に通じるクリエイティブ精神を僕達に伝えた恩師でもあった。彼女は東京、日生劇場のレストラン『アクトレス』の壁画を描いた。その仕事を幸運にもボクは手伝った。壁面から天井へと拡がる彼女の作品が見る人を包み込んだ。'62年、まさにその体験が、今日、壁画を描くようになった僕の原点といえる。絵が趣味という、コレクターに買ってもらう絵は描きたくなかった。フレームにはめられた絵が嫌いだった僕に、彼女は壁画の魅力を教えてくれた。壁画は評論家に芸術と認められる前に、道すがらに『カッコイイ』と感じてもらえるものであって、芸術云々ではなく、ファッションと同じ感覚でただシンプルに『カッコイイ』、そんな心の共感ができるもの」

ー木村さんのクリエイティブ精神の原点になったといえる、京都市立美大ですが、小さい頃から行こうと思っておられたのですか?

木村
 「僕は泉州・泉大津生まれで、堺の泉陽高校に通っていた。小さい頃は勉強しなくても成績は良かったけど、おとなしく勉強するというタイプではなかった。とにかく、やんちゃだった。それで泉陽高校から堀川高校へ転校することになったんだ。幼稚園に行く前の年頃で、コンクリートの地面に蝋石でよく絵を描いた。僕が絵を描きだすと大人たちが集ってきた。横綱の土俵入り、サウスポーのピッチャー、リクエストに応えて何でも描いた。慣れてくると、最後まで何を描いているのか分からない手順で描くようになった。そのためには全体を把握していなければならない。絵を描けば誰にも負けないと思うほどの実力がついた。そんな自信が美大への進学を考えさせたのかもしれない。とはいっても画家にはなりたくなかった。ベレー帽にスケッチブック、貧乏絵描きなんてカッコ悪いと思っていた。入学試験の要項を見ていると図案科、今でいうデザイン科があることを知った。画家にならなくても自分の才能が発揮できる分野があることが分かった。そこで美大の図案科を受験することになった」

ー美大時代、壁画が描きたいと思った木村さんですが、卒業後は、ロックのイベント・プロデューサーの道を歩むことに…。

木村
「ひとりよがりの芸術は嫌いだった。ロックには芸術がどうのという前にポップスとしての大衆との心の共有、そして感動があると思っていた。それは、リチ教授が美術館ではなくレストランなど、大衆が集う場に絵を描いた精神に通ずるものでもあった。
ボクは大学を出てから1年後に講師としてデザイン研究室に戻ることになるんだけど、当時は学生運動が激化していた時代でもあった。そこで『美大生が右や左や言うてどないするねん。政治運動を超えた文化的な革命をしようやないか…』と、学生に一番歳の近かった、若い講師の僕が立ちあがって京都会館で日本最初のロック・フェスティバル『ツーマッチ』をやった。当時というか今もだけれど、日本人は海外の評価に弱い。『ツーマッチ』が、アメリカのギャンドルフというロック・プロジェクト・グループに世界に通じるロック・フェスと評価され、『富士オデッセイ』という『ウッドストックを富士の裾野でやろう』とするプロジェクトの日本側プロデューサーに僕がなる。成り行きと出会いガシラだったけれど、僕は日本に居ながら世界に評価されることになった。
結局その『富士オデッセイ』は幻に終わるんだけど、世界中のミュージシャンやオーガナイザーが『ヒデキ・キムラ』を信用して付き合ってくれた。そして、『モウレツからビューティフルへ』というゼロックスのCM出演のギャラを持って、世界のロック探訪の旅に出た。オランダでは教会を占拠したロックライブ空間『パラディソー』、ニューヨークではビル・グレアムの『フィルモア・イースト』を訪ねた。どちらのハコからも新しいムーブメントを起こそうという息吹があったし、ロックを通じてのカウンター・カルチャーの叫びがあった。そんな『パラディソー』や『フィルモア』に、もの凄い感銘を受けた」

ーそして、日本に帰ってこられて、京大西部講堂で「MOJO WEST」が始まる。

木村
「帰ってきたら、吉田山の『白樺』の故・高瀬泰司から西部講堂でアートやロックを展開したら面白いという話が舞い込んできた。それまでは、映画や演劇しかやっていなかった。誘いがあったときに閃いた。西部講堂と『パラディソー』や『フィルモア』が、ぴたっと結びついたんだ。そしてロックムーブメント『MOJO WEST』が誕生する」

ー海外から日本へ帰って来られたとき、再び京都に戻ってこられたのはどうしてなんですか?東京や大阪は、活動の場として考えなかった?

木村
「ニューヨークを訪ねた時、そこに住もうと思った。キネティック・アーティストの吉田ミノル、彼の奥さんのカエさん、ボブ・ディランのマネージャーのトミー、反戦ミュージカル『ヘアー』のプロデューサーだったピカソの息子とそのワイフ、森ハナエの甥のケンちゃん、彫刻家でありミュージシャンのマサこと和田義正、僕が居候していた小説家のちだ・うい…仲間がたくさんいたこともあったし、日本のように言い訳なし、良いものは良いと評価されるN.Y.の気風が気に入った。ところがいざ永住しようと思ったら、僕の胃袋がN.Y.を拒否した。死ぬまでハンバーグやピクルスを食べる…そんなことにぞっとしたんだ。『日本へ帰ろう。日本やったらやっぱり京都がいい』。なぜそう考えたのかというと、デュッセルドルフ(ドイツ)、アムステルダム(オランダ)、ストックホルム(スェーデン)にも滞在したのだけど、それらヨーロッパの都市は、京都に似ていた。街の中央に川が流れ、ヒューマンサイズで、革新と伝統が調和した京都をヨーロッパの街で再認識したんだ。それと、『金のために何かしよう』と思わなかったとことも大きかった。お金のためにロックや音楽やイベントをする気だったら、東京に行っていたのかも知れないけれど、『カッコいい』事がしたかったから京都に戻ったんだ。
そうそう、そのMOJOだけれど、マディ・ウォーターズの有名な『I Got my MOJO Workin'』からとった。マディがサンフランシスコのハイトアシュベリーであったフリーコンサートでこの曲をプレイ。観客が『モジョ!モジョ!』と叫ぶんだけど、それにシビレたんだ。そのハイトアシュベリーは、この祇園石段下から四条大橋みたいな場所で、『石段下にステージを組んで鴨川までを会場にしたあったフリーコンサートやりたいなァ』と思った。それも、京都に帰ってきて、京都を活動の場にしようと思ったことの一つでもある。'94年の建都1200年の時、全国の祇園祭が四条通に集まった。あれのロック・ムーブメントがやりたかったんだ」

ーそして、MOJO・ダイニングバーから、還暦を迎えた絵描き・木村英輝の壁画制作が始まった。

木村
「う〜ん、それも縁だね。還暦を前に絵を描きたいと思ったときに、グッドニューというマーケティング会社をやっている教え子の平川容豊から、壁画の話が持ち上がった。35年ぶりに描くことになるのだけれど、自分の描けるものを描くしかない。テクニックよりも自分に正直に、本質を描くことに喜びをかみしめた。勢い、動きのある、切れ味とリズミカルな絵を描くだけだ。京都人は文化や伝統のパラサイトになっている。そんな京都だが、レストランの壁画から、寺の襖絵、布包や地下足袋まで自由な発想で僕に絵を依頼してくれる人が住む街でもある。伝統や文化を切り売りして儲けようとするのは『カッコ悪い』。これからも僕は、京都と真正面に対峙し、どんどん絵を描いていく。若い人、いや老若男女問わず、純粋に『カッコイイ』と感じる壁画を描き続けるだけだ」